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會津八一先生と千曲館
會津八一と千曲館
 會津八一(1881〜1956)は、秋艸道人と号す。歌人、書家、東洋美術史学者として知られ歌集『鹿鳴集』『寒燈集』などがあり、独往的な筆風の書は多くの人びとを魅了する。新潟市生まれ、早稲田大学出身、早大教授、同名誉教授、文学博士、新潟市名誉市民、読売文学賞受賞。郷里には「新潟市會津八一記念館」があり、母校には「早稲田大学會津八一記念博物館」がある。
 信州・戸倉上山田温泉(千曲市)の旅館千曲館は大正期に吉池賢三(1876〜1948)が創業した老舗である。賢三は戸倉村(現千曲市戸倉)の村長などを歴任した地域の名士であった。その長男が吉池進(1904〜1979)である。進は早稲田大学を卒業して長野県内で教師をしていた。昭和のはじめに會津八一の歌集『南京新唱』にふれ、感銘を受けて東京の秋艸堂に八一を訪れた。この出会いで進は八一の全人格に魅せられ信奉するようになった。進は生涯を通して八一への敬愛を深めつづけ、八一も進の一途さに応えた。二人の交流は八一の進宛書簡(以下八一書簡という)170余通として遺されている。八一と千曲館の関わりも八一と進の交流の深まりから生まれた。八一書簡をたよりに八一が千曲館に残した足跡をたどってみたい。
 昭和17年夏、八一は身辺の世話をしてくれていた義妹高橋きい子(のちに養女となり會津きい子)の病弱を心配して転地療養先の世話を進に依頼した。これに応えて進は
千曲館で静養してもらうことにした。きい子の逗留期間は八一書簡から推測すると20日間前後に及ぶとみられる。進の住居は千曲館からかなり離れていたが、しばしばきい子を見舞い無聊を慰めた。8月26日付の八一書簡は千曲館のきい子への厚遇を感謝する丁寧な礼状である。書簡の最後にその返礼として「額装二枚進呈致したく只今書留小包にて発送せしめ候」とある。千曲館ではこの二枚を秘蔵している。「悠然」と漢詩の額がそれである。 八一門下の作家結城信一はきい子の千曲館での静養生活を『石榴抄—小説秋艸道人断章—』で描いている。また同書の終章近くには昭和20年7月、疎開先の新潟県中条町(現胎内市)のうら寂しい観音堂で死を前にしたきい子が3年前の信濃の宿(千曲館)や信濃の空、山の思い出にふれながら、八一に別れのことばを語りかける哀切なシーンがある。
 八一は昭和20年4月14日の空襲で罹災した。万巻の書物、蒐集した美術品そして日常の生活用品まですべてを失い、中条町の丹呉家にきい子と二人で身を寄せた。この疎開生活は鍋、釜にも不自由する物資欠乏の困窮状態であった。こうした状況をきい子から知らされた進は見舞金、食糧、日用品などを二人に届けた。また八一からの依頼で漢籍の購入を手伝い、個展用の書の表装の世話もした。この時期、八一と進の交流は、ひんぱんな書簡のやりとりからも知れるように一層深まっていった。
 昭和22年11月6日付の八一書簡には有恒中学(現有恒高校=新潟県上越市板倉)へ講演に行くのでその翌日に「御地へまゐりたい」とある。有恒中学の前身が有恒学舎で教師としての八一の初任校である。八一は学舎創立者増村度次翁の追悼講演を行なったのである。「11月14日 戸倉温泉一遊 千曲館宿泊」と進の記録にある。これが八一の千曲館での初浴泉であった。11月18日付の八一書簡は「今回は何から何まで言語に絶する御優遇を受けありがたく感銘仕候。かかる世情の下にかくの如き御待遇はかへってもったいなく存じ候」という礼状である。
 昭和24年4月、八一書簡が届く。「甚だ突然ながら来る廿八日当地を発し即日御地へまゐり一両日浴泉御厄介に相成度候。御様子も伺はず少〃乱暴と存じ候へども不悪御諒恕被下度候」(26日付)とある。そして帰邸後「例の如く非常に御世話に相成り候。実は胃に疾患があるものの如く折角の御馳走もいただきかぬるもの多くかへって失礼の段皆様へよろしく御披露被下度候」(5月2日付)と丁重な礼状が届いた。 昭和24年9月26日付の八一書簡には「招牌出来のよし承り候」とある。この招牌がいまも千曲館に掲げられている“千曲館”の看板のことだと推測できる。千曲館の看板の揮毫については記録が全く残されていない。記録がないということは、おそらく進が新潟の會津邸を訪れたさいに揮毫して与えられ、そのまま持ち帰ったのではないかと思う。千曲館の看板は当初、中村不折の書であったが、やがて八一の書にかわり、八一の書ははじめは額装のまま使われていたという。それが昭和24年9月に板に刻されて現在のものができたということだろう。いずれにせよ八一書の旅館の看板は奈良の日吉館と千曲館にだけ残された貴重なものである。
 昭和28年10月4日付八一書簡には「来る十日当地発にて御地へ一遊致し、数日御厄介に相成度存じ候。この行はひたすら静養のひまひまに少しくしらべものなと致したく候」とある。このとき八一は発刊されたばかりの『自註鹿鳴集』を数冊携行し各冊ごとに誤りを訂正したり書き込みを加えたりしていたという。それらはごく親しい人びとに届けられ、うち一冊は進に与えられた。
 會津八一は、これまでにみたように昭和20年代に三たび千曲館を訪れた。浴泉して心身を癒し進に話を聞かせ、ときには近郊の散策をした。千曲館としても物不足の中ではあったが、あたうかぎりの歓待をしたはずである。 もう六十年も昔のことである。当時の千曲館の館主夫妻も八一付きだった仲居もすでに亡い。詳しいことはいまは知るべくもない。千曲館の建物も幾たびか改築を重ね、八一来訪当時とは一変している。八一が残した看板だけがいまなおフロントの背後に掲げられ来館の人びとを迎えている。